トルコ市場と世界経済にとっての分水嶺
- 14日、米下院委員会はトルコへのF-16売却を禁止する措置を盛り込んだ法案の修正案を可決した
- F-16を購入するためにはトルコ側がギリシャとの領空争いで大きく譲歩しなければならないため、本法案が上下両院で可決された場合はトルコの防衛能力は大きく後退する
- 今後、トルコが率先して舵取りを行ってきたロシア‐ウクライナ戦争の和平交渉にも影響を与えるだろう。その場合、トルコ市場だけではなく、広く世界経済にとってもリスクとなることが予想される
’組織にとって目標となる事柄は、しばしば個人にとっては犯罪である“(筆者訳)
―”Puhua, vastata, opetta”
by Haavikko Paavo(フィンランドの詩人、劇作家、歴史家)
F-16戦闘機売却を巡る米国・トルコの綱引き
米下院ハウスルール・コミッティー(※1)は14日、米国議会に根強く生き残っている反トルコ感情の発露とも言うべき法案を承認しました。この法案には、一定の条件を満たさない限りトルコへのF-16戦闘機の売却を禁止する修正案が盛り込まれています。
※1 米国の下院議会は上院議会と異なり、立法に際して無制限の討議が行われることはありません。代わりに、あらかじめハウスルール・コミッティーが法案に対する修正案や討論の進め方について決定し、下院はその決定事項に従って協議を進めます。コミッティーの決定は下院に対して絶大な力を持っています。
トルコへのF-16戦闘機売却に関連する「修正案第399」は以下のようになっています。
「F-16のアップグレード技術や近代化キットをトルコに売却または輸出することを禁止する。ただし、大統領が議会に対し、そのような転移が米国の国益に適い、輸出されたF-16がトルコによってギリシャの無許可領空通過を繰り返さないためにとられた具体策の詳細説明を含んでいるという証明書を提出した場合は、この限りではない」
重要なのは、「ギリシャの無許可領空通過を繰り返さない」という箇所であり、米国議会構文に照らして解読すると、「ギリシャが領空を侵犯しないことを保証する」→「すなわちトルコはF-16戦闘機と引き換えにギリシャが主張してきた領空を認めねばならない(※2)」という意味になります。
※2 トルコとギリシャは1960年代以降、東エーゲ海の領空をめぐり対立を深めています。島嶼の多いエーゲ海では紛争を避けるため、トルコとギリシャはそれぞれ6海里の領海を主張していますが、領空に関してはギリシャが10海里、トルコが6海里を採用しています。両国が空軍力に強くこだわるのはエーゲ海上で領空が重なる地点が存在するためで、ギリシャに対して相対的に防空能力が弱体化すれば、トルコの領空が事実上狭まってしまうのです。
コミッティーによる本動議は、米下院によるトルコの主権的権利への異議申し立てであると同時に、政治的・軍事的屈服を要求するものであり、トルコ政府がこれを受け入れるとは到底考えられません。米議会もそのことは十分承知しているでしょうから、今回の動議に関してはおそらくホワイトハウス内、そして民主党内の主導権争いに利用されているのでしょう。
たとえ下院でトルコへのF-16売却が承認されたとしても、上院外交委員会にて全会一致で採決されなければ上院への議決に進みえません。上院外交委員会委員長は米国議会におけるギリシャ・ロビーの大立者であるロバート・メネンデス上院議員で、彼はすでにトルコへの売却に公然と反対の意を表明しているのです。
先日のマドリードNATOサミットにてF-16売却をエルドアン大統領に約束したバイデン大統領は、どのようなオプションを選択するのでしょうか?メネンデス議員にホールド(異議申し立て)権限の行使をしないよう求めるのか?その場合、彼に対する見返りは何なのだろうか?あるいはF-16売却の代わりにエルドアン大統領にギリシャが主張する領空を呑むよう説得するのか?...ですが、すでに返答の予想がつく要求をわざわざアメリカ大統領が行うでしょうか。
F-35戦闘機購入リストからトルコが外される可能性が高まった時、米国から怒りを買うかもしれない(実際にトルコは不利益を被りましたが)というリスクを犯してまでエルドアン大統領はロシアからS-400という防空システムを購入しました。エーゲ海領空という戦略上の要衝で、トルコが再びリスクを犯さないという確証は一体どこにあるのでしょうか。
世界の政治・経済危機の元凶となっているロシア・ウクライナ戦争の只中にあって、最も強力なカードを配られているのは紛れもないトルコです。ロシアとウクライナの代表団をまとめ、世界的な食糧危機の原因だった黒海の穀物輸出問題を解決に導いたのはトルコであり、アメリカとEUが強く望んでいるNATOの東方と北極海方面への拡大のカギを握っているのもトルコなのです。
ならば再びトルコはスウェーデンとフィンランドのNATO加盟に反対するでしょうか?それは十分あり得ることでしょう。大国に挟まれ、国内にも不満分子を多く抱えるトルコ政府にとって、政権を維持し、国益を守り抜くことは日々綱渡りを行うことと同義なのです。ギリシャや米国議会の反トルコ勢力も現在のトルコの優位性を十分理解しているため、今のうちにその国際的な影響力をなるべく削いでおきたいというのが本音なのでしょう。
本来ならば、トルコ空軍の近代化の遅れはNATO軍の対ロシア方面の弱体化を意味するものであり、西側勢力にとっては何のメリットもないはずです。
F-16がトルコに売却されない場合に想定されるシナリオは以下になります。(あくまで筆者の個人的見解に基づくものです)
・トルコに与える影響
トルコのエーゲ海域における防空戦力を一時的に弱めることとなりますが、トルコ全土の防衛力を弱体化させることにはつながりません。逆に中期的にはトルコの防衛産業にとっては追い風となるでしょう。かつて米国議会にて反トルコ・ロビーが武装無人機の売却を退けた結果、現在のトルコは世界トップレベルの無人機製造国・輸出国となっています。トルコ国内の兵器産業が急成長した第一の要因は、米国議会における反トルコ・ロビーなのです。
・米国やNATOに与える影響
トルコの防空能力が弱められるということは、NATOの南東側の防御の弱体化につながります。また、これまでトルコが主導してきたロシア・ウクライナ戦争における各種交渉が、西側諸国の思惑通りに進展しない可能性も考えられます。NATO内での分断は、それこそロシア政府の思惑に沿うものであり、停戦交渉にクリティカルな悪影響をもたらし得るだけでなく、それに伴う世界的な食糧危機や経済縮小の長期化という結末をももたらしかねません。
F-16売却阻止を巡る損益分岐
以上のことから、14日のコミッティーによる動議は一時的にトルコに不利益をもたらしながらも、どちらかというとロシアと対峙する西側諸国により多く不利に働くでしょう。長い目で見ればトルコリラ市場にとってもプラスにはなりませんが、直接的なリスク事象とは言えません。ですが、今後のトルコ政府の出方次第ではリスクオフ要因となり得る可能性があるため、やはり短期的にも市場のボラティリティが高まることは否めません。
今後、数週間以内にトルコ政府がなんらかの対抗案ないし報復措置をぶつけてくる可能性は否定できません。それがクリティカルなもので、欧州とトルコの経済にダメージをもたらすものであるのか、あるいは政治的なテクニックに過ぎず、そこまで警戒しなくてよいレベルのものなのか…これについてはまだ判断しきれません。
念のため補足しますが、アメリカ大統領は外交・軍事に関する重大動議であれば議会の承認を得ずとも単独で意思決定可能です。もしも上院外交委員会で正式に棄却された場合でも、大統領権限にてF-16の売却は出来るのですが、だからといって中間選挙前に民主党内の結束を弱体化させる選択はしないでしょう。その結果がもたらすのはバイデン政権のレームダック化であるというのは誰もが想像出来ることです。それゆえ、14日のコミッティーの採決は個人的には今後の戦争と世界経済の行方を大きく変えた分水嶺のように思えるのです。
投資家の皆様に十分警戒していただきたいのは、今後のエルドアン大統領の対抗措置です。
ギリシャとの領空問題に絡めた今回の動議は、ブッシュ政権時代の軍艦売却問題(※3)と異なり、トルコの国家としての主権にかかわる根源的な琴線に触れるものです。これまでエルドアン大統領が選択してきた政策に鑑みれば、90%以上の確率で何らかの対抗措置をとるだろうと想定されるため、世界経済には決して良い結果はもたらさないだろうと考えます。
※3 1990年代、ギリシャ出身のポール・サーベンス米上院議員はトルコへの売却が決まっていた軍艦の引き渡しに粘り強く抗議し、最終的にはこれを断念させることに成功しました。背後には、ギリシャとトルコの代理戦争とも言うべきキプロス紛争が存在しており、今回のように両国の領土問題が直接ぶつかり合う事象ではありませんでした。
エルドアン大統領とその顧問団、そしてロバート・メネンデス米上院議員に対し、「どこかで間違いを犯したのではないか」と自問を促すのは正解ではありません。今は悲惨な戦争の真っ只中であり、1日でも早く終わらせて犠牲者を減らすのが何よりも優先されるのではないか?それは何よりも両国指導者の英雄的な行動にかかっているのではないのか?などと良心に訴えかけるのも的外れです。
当然、政治家個人の人間としての良心というレベルにおいてはそれが正解かもしれません。ですが、彼らは彼らの持つ良心とは何ら関係なく国際政治というパワーゲームに参加しているのであり、そこでは自身の政治的影響力と国益が何よりも優先されるのです。
ゆえに、個人の思惑の集合である市場とその対極にある国際政治とはしばしば齟齬をきたすものであり、その齟齬が市場に対するリスク事象、あるいはストレスケースとしてフィードバックされるのでしょう。
ともあれ、今後のロシア・ウクライナ戦争に関連するトルコ報道には十分に注意するようお願いいたします。
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外貨ex byGMO 市場リスクアナリスト。銀行のPB系部署で経験を積んだ後、自ら思い描いたプライベートバンキングサービス、アセットマネジメントサービスを提供するため独立。すぐに軌道に乗るも世界金融危機ですべてを失い、リスクマネジメントの大切さを思い知らされる。その後は金融リスクと数理的な技術を学ぶため、複数の金融機関を渡り歩き今に至る。